2008年11月5日

[書評] 特攻とは何か

特攻とは何か (文春新書)特攻作戦を指揮した側の記録が丹念に描かれている本(全342ページ)です。同じ著者の『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯(上下)』では特攻に選ばれた側の記録が留められているそうです。全編を通して特攻の生みの親として語られることの多い、大西瀧治郎を中心として描かれています。

自爆体当たり攻撃の目的は三段階に分かれていたそうです。
大西長官の体当たり攻撃は、次の三つの段階に集約することができる。第一はレイテ沖海戦での栗田艦隊突入を援護する戦術的作戦、第二は「....これで何とかなる」とつぶやいた航空機による全力特攻への移行、第三は軍令部次長に転じてからの徹底抗戦、一億総特攻への戦略的転換の時期である。(p.281)
まず最初の神風部隊の運用は戦術的なものでした。日本軍の圧倒的な航空兵力の劣位の中、最後の反攻作戦を成功するために、米空母の航空甲板を使用不能にするために編成されました。
巨大戦艦大和、武蔵以下の第一遊撃部隊がサンベルナルジノ海峡を通ってレイテ湾口に殺到するという、日本にとっての最後の連合艦隊決戦である。...(略)...かれらを米軍機の航空攻撃から護るために、一時期米空母の飛行甲板を破壊し、発着不能にするというのが体当たり攻撃の主旨なのだ。(P.73)
次に、特攻が圧倒的な不利な情勢でも戦果をあげられる作戦だということが分かりました。大西長官はこの作戦を拡大運用し、劣勢をすこしでも挽回しようとしていきます。
敷島隊の戦果ーーいや、菊水隊の戦果も加えて、明らかに大西長官の心情に変化が起こった。「これでどうにかなる」の一言は、当初水上部隊のレイテ湾突入にそなえて米空母の飛行甲板を一時使用不能にする、という作戦目的から大きく飛躍して、在比海軍航空兵力の全力特攻化へと目的を大きく拡大したことを意味する。(p.147)
この頃になると日本人特有の前例主義によって作戦を指示しやすくなったのか、周りの参謀も特攻に慣れ始めます。命じる方も、命じられる方も通常の作戦のように特殊な作戦だと思わなくなっていくそうです。そして、最終段階として一億総特攻という考え方が出てきます。
国民全部が特攻隊となる。そして戦い抜くのだ。いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても最後に一勝すればそれが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。(p.305-6)
ここまで来ると、そこまでして引き分けに持ち込んだ後に何を得られるのか考える必要があるでしょう。実際に本土決戦は避けられました。大西は特攻を会津藩の白虎隊に例えたことも言っていたそうです。ここまで来ると一人ひとりの美学の問題になってきます。
「昔、明治維新のときだが、会津藩が敗れたとき、白虎隊が出ただろう。一つの藩の最期ですらそうだった。まして、今は日本が滅びようとしているのだ。祖国の滅亡にさいし青年の総決起があってもいいじゃあないか。...(略)...」(p.302)
現在の日本では「特攻なんてバカなことをやった」と言うように語られることが多いですが、特攻はその他の有効な手段が奪われているという前提の前に成立しています。通常の攻撃を仕掛ければ、より多大な損害を被り、より少ない損害を与えることしか出来ない状態で、他に手がなかったのかも知れません。アメリカ側にも特攻を効率的だと見ていた大将がいました。
米戦史家トーマス・B・ブュエルは、はじめて日本の特攻攻撃を知った時のスプルーアンス大将の反応をこう記している。「スポルーアンスはこのような神風部隊の使用を『健全にして経済的な戦法であり、しかも日本人の気質に特に合致した方法である』とみていた。...(略)...」(p.225)
特攻とは何か (文春新書)
森 史朗 (著)

遺書の碑
日米レイテ決戦場へ
誰が特攻を決めたのか
特攻隊員の群像
特攻作戦の拡大
第二特別攻撃隊編成へ
特攻と日本人
米側の反応
生きていた軍神
特攻に反対した指揮官
大西長官、比島より転進へ
最後の一日

日本人以外に、特攻作戦を実施した国民はいない。なぜ、こんな非道な戦法を採ったのか? 敗戦直後、割腹自決した「特攻隊の生みの親」大西滝治郎海軍中将たちの苦悩と葛藤を描き、命じた者の立場から初めて特攻を検証する。

4 comments:

花園 祐 さんのコメント...

 特攻についてはやはり立場上、あまりいい感情が持てませんね。
 これは沖縄戦の話ですが、軍隊が民間人保護よりも自分たちの戦闘を有利にすることを優先したことについて、本来国民を守るべき軍隊が自分たちを優先する自体、国軍としての機能を果たさなかったという指摘があり、この特攻も、記事の中で「一億総特攻」と書かれているように守るべきものがはっきりしていなかったというのは、戦前の軍隊において致命的な欠陥だったと思います。

Madeleine Sophie さんのコメント...

特攻は、人の醜い面が見える気がして読んでいてつらくなります。確かに良い感情は持てませんね。

沖縄戦の話ですと、「本来国民を守るべき軍隊」という概念自体が戦中は存在していなかったかも知れません。「天皇を守るべき軍隊」だったのかも知れませんね。そうだとすると、国民を見捨てるという暴挙も軍人としての論理を押し通したものだったのかも知れません。常識と言うのは移り変わっていくものなので、現在の価値観で判断すると、真面目な軍人が熟考したうえでの判断がとんでもない行動に見えることもありそうですね。

匿名 さんのコメント...

上記の本は読んでいないが、沖縄は戦場であったのです。これが市街戦です。スターリングラードと同じです。しかも、沖縄の場合海に囲まれ、逃げるところがなく、民間人は安全地帯に撤退できなかった。

少なくとも、台湾にいた師団をわざわざ抽出し、守備隊として沖縄に置いたことからみて、当時の日本軍が沖縄県民を守るつもりだったことは軍事的に考えて間違いありません。なぜなら、補給のつかない沖縄を守備することは軍事的に無価値だったのです。史実より、米軍により苦痛を与えるならば、沖縄県民を見捨てて、補給能力があった台湾で戦ったほうが合理的なのです。
旧日本軍には問題はあってにせよ、独ソ中の軍隊と比較すればまともなのではないでしょうか。

当時の日本軍の兵隊はロボットではありません。教育は今と違いましたが、皆自分の頭で考えることができた人たちです。なぜ自分は戦場にいるのか、自問自答をしていたことでしょう。

Madeleine Sophie さんのコメント...

コメントありがとうございます。

沖縄では民間人は沖縄の外に逃げることが出来なかったのは同意です。台湾の守備隊を沖縄守備に回したことが日本軍のまともなところだったという指摘ですが、具体的な戦況については疎かったので調べてみました。沖縄の守備に当たっていた第32軍(wikipedia)の多くの戦力は米軍の上陸前に台湾に回されたという反対の記述が多く見られました。間違っていましたらぜひ指摘してください。

日本軍の兵隊はロボットなどではなく、多くは自分の状況とやるべきことを認識していたのかも知れません。しかし、その認識と判断の基準は現在とはちがっていたと考えられますよね。

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沖縄戦 - Wikipedia
第9師団は精強・練達で知られており、第32軍の中核となる予定だった。ところが、レイテ決戦のために台湾駐留部隊が動員されると、穴埋めに沖縄から1個師団を台湾へ転用するとの方針が大本営で決定され、やむなく第32軍は第9師団の転出を決めた[6]。これで兵力の三分の一近くが失われ、第32軍は積極作戦から持久作戦への転換を余儀なくされる。

[6] 第9師団は1944年12月中旬から翌45年1月中旬にかけて台湾へ移動していった。

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