2008年10月20日

[書評] パリに生きた科学者 湯浅年子

パリに生きた科学者 湯浅年子 (岩波ジュニア新書)1939年、30歳にしてパリに旅立って、研究を続けた科学者の生涯を描いた本です。科学者を取り巻く状況が、当時と今はまったく違う様相で驚きます。まず、フランスへの渡航は船でした。インド洋を抜け、スエズ運河を抜けてからマルセイユ経由でパリにやってきます。簡単に帰国できない日本に病気の父親をおいて来た覚悟は今とは違うものでしょう。また、時代は第二次世界大戦まっただ中です。パリでの研究を開始した年子の幸福な日々は、たった3週間後にパリが陥落することで終わりを告げます。この時の、年子の研究に掛ける執念は凄まじいものでした。まさに命をかけて研究している姿は、劇的です。
「ここで研究できずに日を過ごすのは大変つらいことです。たとえパリの研究所で爆弾の下に死ぬとも悔いないから、どうかよびもどしてください。」...(略)...「あなたの安全を思って避難をすすめたが、あなたが爆弾が落ちて死のうともかまわない覚悟なら、一緒に死にましょう。」年子は涙をこらえるのに必死であった。(P.33-34)

その後、フランスの研究所で占領軍のドイツ研究者と共に研究していましたが、連合国側のパリ奪還を迎える手前に、日本人である年子はドイツに移されます。結局、年子はそこでドイツ降伏を迎え、日本に帰って来て日本の終戦を迎えます。

研究の業績はものすごいもので、CNRS(フランス国立中央科学研究所、Centre National de la Recherche Scientifique)の名誉研究員にまでなっています。本書は研究の軌跡だけを書いているだけではなく、年子の気持ちや悩みなどを残された書物から取り出しているところが特に興味深いです。45歳の時に、帰国しないとお茶の水女子大学を退職扱いになってしまう人生の選択がありました。最初にフランスに渡ってから15年経っても、やはり一生フランスに留まる決意と言うのは難しいものだったことが分かります。
帰国すれば研究テーマの継続は望まれず、再び研究を軌道に乗せるまでにはまたまた多くの時間と困難が予想される。一方、今帰らなければ、もはや同大学に戻ることは不可能で、一生フランスに留まる決意をしなければならない。年子の心は揺れる。(P.116)
30歳にしてフランスに渡り70歳で亡くなるまで、多少の中断を除いてフランスに滞在した年子はすっかりフランス人のようになってしまったかと想像するかもしれませんが、終世意識は日本人であったそうです。
ここに書きのこしているいちばん重大な点は、いくら日本が骨を折り、フランスはじめヨーロッパが東洋への理解を深めて近寄ろうとしても、私の考えでは、「東洋」と「西洋」は異質の民族なのであり、ほんとうの意味では諒解しあえない思想というか思考体質をもっているということである。そこで私にとって祖国とは、故郷とは、同胞とはということを考えてみようというわけである。(P.174)
他の人たちは、パリに学び、パリで死んでいく。個人(少なくとも私自身)にとってはそれで満足しているが、祖国は日本以外のどこでもないのだ。(P.185)
2つ目の引用は、年子の絶筆の結びです。どちらの引用も、どれだけ外国にいようとも祖国は日本だけであるという想いを述べています。まだ在仏1年6ヶ月に満たないですが、僕も同じように感じます。

ただ、東洋と西洋が異質で諒解し得ないかどうかは、まだ感覚として分かりません。おそらく、年子の意見はもっと高い次元の相互理解と言うことになるのでしょう。自身の考え方を、全てフランス人のような考え方と入れ替えることはできず、またしたいとは思いませんが、フランス人の考え方に触れ、その考え方を理解し、よいものがあれば自分の中に取り入れる努力をしていきたいと感じています。そういった努力はいずれ限界がくるという予言かもしれません。そのとき、また振り返ってみたい言葉です。
パリに生きた科学者 湯浅年子 (岩波ジュニア新書)
山崎 美和恵 (著)

1 フランスへの旅立ち
2 コレジ・ド・フランス原子核化学研究所
3 ドイツ占領下の研究所で
4 崩れ行くベルリンで
5 敗戦の祖国
6 再会、そして別れ
7 オルセー原子核研究所で
8 断層を超えて
9 “Jusqu’au bout”—最後まで徹底的に

第二次世界大戦勃発直後、三〇歳で単身渡仏。ジョリオ=キュリー夫妻のもとで研究を始めたものの、敗戦の迫る日本に帰国を余儀なくされ…。国際的に活躍し た日本初の女性科学者の伝記。波瀾万丈の生涯にあって、真摯に科学と向き合い、芸術や文学、哲学や宗教にも心を傾けた生き方からは、勇気を与えられます。

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