2008年10月16日

[書評] 高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)
博士課程に進んだ学生がどのような過酷な条件に置かれることになるのか解説されている本です。タイトルから分かる通り、博士号についての利点・不利益を検証する本ではなく、もっぱら負の側面を解説した本と言えます。ネット上に同じようなテーマのウェブサイトがあります→「創作童話 博士が100人いる村」。

簡単に読める本なので、博士課程に進む学生は目を通しておいた方が良いと思います。とはいえ、博士号の負の側面を描き出すと言う趣旨は良く分かりますが、本書のまとまりはよくないと感じました。一番気になったのは、博士が100人いる村でもそうでしたが、文系と理系の区別がはっきりとつけられていない点でした。著者のプロフィールによると「人間環境学博士。専門は、環境心理学・環境行動論」だそうなので、主に文系の博士について書かれているのだと思われます。

著者の意見は、大学の入学生が減りはじめる頃から、大学院生が増えだしていることから、大学院生達が学費を払う金づるとして利用されているというものでした。その結果が、タイトルにもなっている「高学歴ワーキングプア」だそうです。僕自身、現在博士課程在籍2年(理系)なので、描かれる博士課程修了者の悲劇は人ごとに思えません。そして、あまりの悲惨さに、著者は仏に意味を問うてみることにしたそうです。
自らの人生について、ここらで考え直してみるのも一手ではあるまいか。私自身、仏門に入ったのは、このことと無関係ではない。現世の無情とどう付き合えばよいか。我の思いとはならぬこの身を仏にまかせ、「生きる」という問題への知恵をあおぎたくなったのだ。(P.165)
この文章にあるように、著者もその悲惨さの中にあって、解決策を見つけた人物ではありません。つまり、その悲惨さの中の解決策は本書では提示されていません。強いて言えば、「利他の精神(P.210)」か、もしくは以下の部分です。
これから、大学院を目指す人達は、老いも若きも自らのなかに何を目的として進学するのかということを明確にイメージすることが必要となるだろう。そして、そこに価値を見いだすことは、それぞれの作業となっていくだろう。(P.190)
明確な解答とは言えませんが、その通りかもしれません。本書は、博士課程に進む学生がその後の状況を知る上では有用かもしれませんが、その結論(仏門利他の精神)は個人的には、ほとんど使えないと感じました。

博士号を「足の裏の米粒」と例えているのを初めて聞いたのは、だいぶ前のことですが、当時は上手いこと言うな〜と感心した覚えがあります。
博士号をさして、「足の裏の米粒」などと揶揄する声も耳にすることが少なくない。その意味は、「とっても食えないが、取らないと気持ちが悪い」だ。(P.188)
本書では、博士号には米粒ほどの価値しか無いと述べられていますが、当時僕が聞いたときには、すこしニュアンスが違いました。曰く、博士号を取れば仕事が急にできるようになる訳ではないけど、培った知恵と知識をどのように社会に役立てるかが重要だということでした。つまり博士号を取ることに価値を見いだすのではなく、その過程でつける知恵と知識に価値を見いだせということでした。

本書は、博士課程に進む学生が読むと憂鬱になるタイプの本だと思いますが、僕は逆にやっぱり博士課程に進学してよかったなと思いました。長くなったので、別エントリで書いていこうと思います→「博士課程に進む意義」。
高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)
水月 昭道 (著)

 はじめに
 第1章 高学歴ワーキングプアの生産工程
 第2章 なぜか帳尻が合った学生数
 第3章 なぜ博士はコンビニ店員になったのか
 第4章 大学とそこで働くセンセの実態
 第5章 どうする? ノラ博士
 第6章 行くべきか、行かざるべきか、大学院
 第7章 学校法人に期待すること
 おわりに

大学院重点化というのは、文科省と東大法学部が知恵を出し合って練りに練った、成長後退期においてなおパイを失わん都執念を燃やす"既得権維持"のための秘策だったのである。
折しも、九〇年代半ばからの若年労働市場の縮小と重なるという運もあった。就職難で行き場を失った若者を、大学院につりあげることなどたやすいことであった。若者への逆風も、ここでは追い風として吹くこととなった。
成長後退期に入った社会が、我が身を守るために斬り捨てた若者たちを、これ幸いとすくい上げ、今度はその背中に「よっこらしょ」とおぶさったのが、大学市場を支配する者たちだった。(本文より)

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