2008年6月11日

死刑制度について


Paris, France
秋葉原通り魔事件がおこった翌日、やはり同僚と話題になりました。フランス語ではMassacre d'Akihabaraと言い、英語ではAkihabara massacreといいます。Massacreとはナチスの強制収容所や、南京でも使われる虐殺という用語です。事件の二日後にして、すでに8カ国語のwikipediaの記述が見られます。海外でも相当の関心があるといえます。

一通り話し合った後、容疑者はどんな刑が下されるかという話になりました。7人殺害ということで死刑は免れないでしょうというと、少し顔が曇ったように感じました。フランスでは1981年に死刑が廃止されている上、死刑廃止はEUへの加盟条件となっています。「執行の仕方はどういうもの?」、「精神異常者は刑が免除になるの?」などなど、聞かれました。日本人が途上国の、残酷な死刑を聞いて戦慄するように、日本も野蛮だと思われているのかも知れません。

このエントリーでは、死刑存廃問題について書こうと思ったのですが、参考にするサイトが膨大すぎて精読する気にもなりません(死刑存廃問題世界の死刑制度の現状死刑)。存続/廃止のどちらにもそれなりの根拠があって、議論が続いている状態です。よって、本エントリーでは自分の考えと、気になる根拠をつまみ食いして終わります。まず、自分自身の考えとしては、1ヶ月前に本ブログのエントリー「[書評] フランス反骨変人列伝」を書いた時から、廃止により傾いています。

本には、死刑廃止を訴えたパリの処刑人(ムッシュ・ド・パリ)の話が書かれています。死刑執行人を務めた一族の六代目のアンリ-クレマンはその回想録で死刑制度を批判します。誤審の問題、時代による罪の定義の変化、死刑による犯罪抑止力へ疑問など、廃止の一般的な根拠も述べられますが、心に残ったのは以下の部分です。六代の処刑人が人々の偏見に苦しんだ歴史が書かれていて、最後にこう結んであります。
死刑制度の必要性を声高く主張する人々でさえ、実は、全面的に賛成しているわけではない。死刑執行人に対して嫌悪感をもつということが、その証拠だ。死刑判決に喝采する人も、その判決を執行する人間のことは忌み嫌う。...(略)...処刑人を忌み嫌うのは自然の情であり、正しい。死は忌むべきものなのだから、人々が処刑人から顔を背けるのはもっともなことなのである。自分が百十一人の人間を処刑したことも糾弾されるべきである。しかし、真の罪人、それは法であり、それを適応する判事であり、それを命じる社会である。(P.212,フランス反骨変人列伝 )
死刑執行人にも何の偏見もなく接することが出来るのか、もし出来なくて死刑存続に賛成ならば、矛盾しているということです。社会が死刑を絶対的正義と認めるならば、死刑執行人にも偏見ではなく、裁判官や弁護士と同様に、法の番人としての名誉と地位を与えるべきだということも書かれています。

また、社会に生命を奪う権利があるかどうかという問題については、否といいます。
社会の秩序を乱した犯罪者を隔離するのはいい。この世の楽しみを享受する権利を取り上げるのは正当だ。この権利は社会が与えたものだから、社会はそれを奪い取ることが出来る。しかし、命は社会が与えたものか?否である。人間の命は神から与えられたものだ。だから、社会には、自分が与えたものでもない生命を奪い取る権利はない。(P.211,フランス反骨変人列伝)
僕自身は神の存在を信じる訳ではないですが、人間が生まれながらにして持っている生命は社会が与えたものではないという解釈は自然だと思います。社会が与えたものを社会が奪うというにすれば、論理的です。そう言う意味では、死刑制度は自然に与えられた生命を社会が奪うという、社会の傲慢ともとれます。

ここまででこのエントリーを終わる予定でしたが、wikipediaの参考文献から興味深い指摘を見つけました。以下の死刑存続の論理です。死刑を社会に生きる全ての人の約束事と位置づけた記述です。たしかにこう解釈することで、上の論理は結論を変えることになります。
罪と罰、だが償いはどこに? 中嶋 博行 (著)
「死刑制度には『私はあなたを殺さないと約束する。もし、この約束に違反してあなたを殺すことがあれば、私自身の命を差し出す』という正義にかなった約束事がある。ところが、死刑を廃止しようとする人々は『私はあなたを殺さないと一応約束する。しかし、この約束に違反してあなたを殺すことがあっても、あな たたちは私を殺さないと約束せよ』と要求しているに等しい。これは実に理不尽である」(P.189)
まとまりのないエントリーですが、死刑制度については特にフランス人との感覚が違うこともあり、それについて触れてみました。

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